興徳寺について

興徳寺について-歴史

(平成22年作成)
西暦・元号 住職 出来事
1289
正応2年3月
1世
日興
日蓮聖人の直弟子・日興上人〈6老僧の一人〉が、上野の南条時光邸で講演を開くと、馬見塚の郷士・塚本源吾が深くその教化に心服して、邸の東方約1キロに当たる 霧ケ峰に寺を建てて寄進し、蓮華山光徳寺とした。
1568
永禄11年12月7日
  武田家から当寺に於いて 乱暴狼藉をしてはいけないという 制札が下る
1614
慶長19年2月
26世
日出
現在の用水を三宝様お花水として寄進する、という古文書がある(だからこれ以前に柚野に来たことは確か、境内地は 当時  西の山全部の所有者で資産家の えっちき家より寄進された)
 
元禄
27世
日真
多くのご本尊を檀家に授与
  28世
日実
1〜2年の在住
1701
元禄14年
29世
日光
日光上人就任、数年間の在住。 「富士郡上方 身延山直末 下柚野村 大日蓮華山光徳寺」 と書いている
1744
正徳4年
30世
日運
日運上人就任、30年在住(1744、延享元年まで)
 
元文4年4月26日
31世
日生
日生上人就任、14年間在住(1753、宝暦3年まで)後、大泉寺31世となる
1753
宝暦3年
32世
日産
日産上人就任、16年間在住(1769、明和6年まで)、30世日運上人、当寺で隠居生活(経済的に余裕があったことの証)
  33世
日芳
(資料なし)
  34世
日実
日実上人のご本尊2幅現存(1709、安永9年と1784、天明4年)
1786
天明6年
35世
日啓
日啓上人(身延山47世日豊上人弟子)就任、13年間在住(寛政11年8月遷化)
  36世
日顕
井の頭 遠照寺20世、就任後1年で遷化、その後1年は無住
1802
享和2年4月5日
37世
日養
日養上人就任、19年在住(1821、文政4年6月15日遷化)
  38世
日栄
4年在住(1825、文政8年4月7日遷化)
1825
文政8年
40世
日道
日道上人就任、退住年度不明、(1845、弘化2年2月25日
1829
文政12年
35世
日啓
日啓上人(身延山47世日豊上人弟子)就任、13年間在住(寛政11年8月遷化)
1845
弘化2年2月16日
41世
日逢
日逢上人就任、9年在住(1854、安政元年 退寺)後、浜松の東本徳寺24世として栄転
1854
安政元年4月4日
42世
日演
日演上人就任。安政6年、3月22日、本堂消失、御尊像のみ助かる。翌年、万延元年、5月11日、山崩れで庫裏が全壊、小僧さん2名が死亡。日演上人は同年8月16日、寺を出て、甲州本郷の恵光寺に奇遇、慶応2年、病死。恵光寺は後、廃寺となる。
1860
万延元年8月26日
43世
日晄
日晄上人就任。現在の庫裏を建立(今から147年前)  この頃は大日蓮華山興徳寺
    (これから明治10年までの僅か17年の間に6人の住職が亡くなられた)
1878
明治10年
48世
日啓
羽鮒の妙行寺から日啓上人入山。翌年5月、民間人が所有の三澤寺の七面堂(1654建立、354年前)を購入し、本堂を再建
1888
明治22年6月13日
49世
日溝
大久保円恵寺27世から当山に入山。本堂、庫裏を自前で整備。明治43年8月27日、長貫の長見寺に入山。
1909
明治43年8月
50世
日雄
井之頭、遠照寺32世から日雄上人入山。大正14年5月に退寺、和田の本秀寺で遷化。
1926
大正15年
51世
日栄
日栄上人就任。昭和49年3月9日遷化
1975
昭和50年3月2日
52世
日譲
日譲上人就任。平成17年9月30日遷化
  53世
日境
(加歴)
2006
平成18年7月1日
54世
(現)
(泰然、就任)