興徳寺の情報交流

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興徳寺の情報交流-紙上法話

第91号(復刊第16号)平成23年お彼岸

なぜでしょう あたりまえ

あたりまえ

あたりまえ
こんなすばらしいことを
みんなはなぜよろこばないのでしょう
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせば何でもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、
それを失くした人たちだけ
 なぜでしょう
 あたりまえ

井村和清著
「飛鳥へ、そして
   まだ見ぬ子へ」より

 

「飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ」は、右膝の悪性腫瘍で右足を切断するも、その後、両肺に転移し、1979年1月、31歳の若さで惜しまれつつ逝去された、井村和清医師が死の直前まで綴った遺稿集です。 死後まもなく次女が 誕生しました。
何かを失って、初めて「あたりまえ」が、いかにありがたいかを知る。

 この詩は 片足を失い、その後の肺への転移で自らの死を悟った青年医師が、亡くなる20日前、妹に宛てた手紙に添えられていました。医師であるがゆえに、冷静に状況を把握し、最後まで生きる勇気と希望を失わず、周りへの気配りと感謝を忘れず・・・その生き方は没後32年を経た今でも、私たちに大きな感動を与えてくれます。
「親孝行 したいときに親はなし」という諺(ことわざ)があります。あたりまえの存在であった親がこの世から消える。何もしてくれなくていい、寝たきりでいいから、もう少しいて欲しかった・・・
 通夜の席で、よく聞かれます。

 『我が頭(こうべ)は父母の頭(こうべ)、我が足は父母の足、我が十指(じゅっし)は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬えば種子(たね)と菓子(このみ)と、身と影のごとし』
―――私の頭は父母からいただいた頭であり、足も 十本の指も 口も みな 父母からいただいたものです。それは、種子(たね)と果実(み)の関係、あるいは 身体と影のような関係なのです――
 日蓮聖人「忘持経事」より

 時代が変わっても、当たり前のことを当たり前として大切に受け止める。そんな気持ちを持ち続けたいものです。
 失う前に・・・
 あ・た・り・ま・え


【写真提供 高瀬幹雄】