興徳寺について

興徳寺について-興徳寺のあらまし

興徳寺について-興徳寺のあらまし-興徳寺史

興徳寺前史

  当山、興徳寺は鎌倉時代、正応二年(1289)三月、白蓮阿闍梨日興の開基に由来し、700年以上の歴史を持ちます。

 開基、日興上人は、1246年に、甲斐国大井庄鰍沢(山梨県鰍沢町)に生まれました。幼い頃、現在の富士市に移り、蒲原の天台宗四十九院に入って修学。12歳の頃、日蓮聖人が「立正安国論」執筆のため岩本実相寺に入られたとき、許されて門下となり、日興と名を賜りました。

 日蓮聖人が身延に入山されると、日興上人は駿河を中心に甲斐・伊豆方面に布教し、各地の豪族を教化して着実に地歩を固めました。日蓮聖人は入滅直前の10月8日、本弟子6人を定め、滅後の法灯とされ、日興上人は白蓮阿闍梨の名を賜りました。翌年1283年正月、大聖人の百ケ日忌にて身延輪番が定められたものの、三回忌のころには当番はなおざりになり荒廃してしましいました。

 日興上人が当番の9月に登山したところ、墓は鹿のひづめで踏み荒らされ「目もあてられぬ有様」だったといいます。そこで日興上人は身延に常住することを決意。やがて、六老僧の一人、日向上人と長老合議制の身延山の経営が始められたのですが、身延の地頭、南部実長と教義上の対立もあって、1288年、身延を下りることになりました。翌1289年、上野(現在の静岡県富士宮市上条・下条・馬見塚・精進川地区)の地頭、南条時光に請われて大石ケ原に草庵を建て、しばらくここに住まわれました。


興徳寺の誕生

  同年、1289年春、日興上人、講筵を南条邸にて開くと、これを聴いた馬見塚の塚本源吾という名士がいたく感動して深く教化に帰服。自ら寺を馬見塚字霧ヶ峰に建てて寄進し、その寺が現在の興徳寺の前身となる「蓮華山光徳寺」となりました。日興上人はその後、現在の富士宮市北山に建立された重須本門寺に移り、正慶2年(1333)2月7日、88歳にて入滅されました。

 それから時を経て、戦国時代から江戸時代にかかる慶長年間(1596年から1615年の間)、興徳寺二十世、本立坊日安の代に、伽藍を現在の地、富士宮市下柚野に移転。1654年、本堂が建立されました。1701年には、下柚野村「大日蓮華山光徳寺」と称しました。1859年、災害により興徳寺本堂消失、さらに翌年1860年、山崩れで庫裏が全壊する災難に見舞われてしまいました。

 折しも、江戸時代末期、幕末の騒乱の激しい時代でした。第四十三世日晄上人は、興徳寺の復興だけではなく、心の奥に世の復興への想いをかけて、「光徳寺」→「興徳寺」へと改称、同年、大日蓮華山興徳寺とし、庫裏を再建、建立しました。明治12年(1879年)、四十八世日啓上人の代に、念願であった本堂を再建、現在の興徳寺の姿になりました。