興徳寺について

住職挨拶

 31歳で家族とともにブラジルに渡り24年間、彼の地の土となるべく墓まで用意していたのですが、仏縁に導かれ生まれ故郷に戻って参りました。
平成16年、54歳で出家得度、2年後に興徳寺の五十四世住職を拝命し現在に至ります。
仏さまの教えは幸せになるための方法です。そのことを自ら実践体験し、分かりやすい言葉で伝える事、興徳寺が縁ある方にとっての心の故郷(ふるさと=実家)となるよう整備してゆく事、それが私の役目であると思います。
役目を果たし切った時、仏さまが迎えてくださることを信じ、これからも精進して参ります。

和尚さん写真和尚さん写真

所在地

日蓮宗 大日蓮華山
興徳寺
〒419-0305静岡県富士宮市下柚野431
TEL:0544-66-0039

JR身延線「富士宮駅」 
富士急静岡バス「柚野公民館」下車 徒歩5分
JR身延線「稲子駅」から車で約15分
JR身延線「芝川駅」から車で約20分
JR身延線「西富士宮駅」から車で約20分

興徳寺の
  あらまし

 当山、興徳寺は鎌倉時代、正応2年(1289)3月、白蓮阿闍梨日興の開基に由来し、700年以上の歴史を持ちます。

 開基、日興上人は、1246年に、甲斐国大井庄鰍沢(山梨県鰍沢町)に生まれました。幼い頃、現在の富士市に移り、蒲原の天台宗四十九院に入って修学。12歳の頃、日蓮聖人が「立正安国論」執筆のため岩本実相寺に入られたとき、許されて門下となり、日興と名を賜りました。

 日蓮聖人が身延に入山されると、日興上人は駿河を中心に甲斐・伊豆方面に布教し、各地の豪族を教化して着実に地歩を固めました。日蓮聖人は入滅直前の10月8日、本弟子6人を定め、滅後の法灯とされ、日興上人は白蓮阿闍梨の名を賜りました。翌年1283年正月、大聖人の百ケ日忌にて身延輪番が定められたものの、三回忌のころには当番はなおざりになり荒廃してしまいました。

続きを読む

 日興上人が当番の9月に登山したところ、墓は鹿のひづめで踏み荒らされ「目もあてられぬ有様」だったといいます。そこで日興上人は身延に常住することを決意。やがて、六老僧の一人、日向上人と長老合議制の身延山の経営が始められたのですが、身延の地頭、南部実長と教義上の対立もあって、1288年、身延を下りることになりました。翌1289年、上野(現在の静岡県富士宮市上条・下条・馬見塚・精進川地区)の地頭、南条時光に請われて大石ケ原に草庵を建て、しばらくここに住まわれました。

  同年、1289年春、日興上人、講筵(こうえん)を南条邸にて開くと、これを聴いた馬見塚の塚本源吾という名士がいたく感動して深く教化に帰服。自ら寺を馬見塚字霧ヶ峰に建てて寄進し、その寺が現在の興徳寺の前身となる「蓮華山光徳寺」となりました。日興上人はその後、現在の富士宮市北山に建立された重須本門寺に移り、正慶2年(1333)2月7日、88歳にて入滅されました。

 それから時を経て、戦国時代から江戸時代にかかる慶長年間(1596年から1615年の間)、興徳寺二十世、本立坊日安の代に、伽藍を現在の地、富士宮市下柚野に移転。1654年、本堂が建立されました。1701年には、下柚野村「大日蓮華山光徳寺」と称しました。1859年、災害により興徳寺本堂消失、さらに翌年1860年、山崩れで庫裏が全壊する災難に見舞われてしまいました。

 折しも、江戸時代末期、幕末の騒乱の激しい時代でした。第四十三世日晄上人は、興徳寺の復興だけではなく、心の奥に世の復興への想いをかけて、「光徳寺」→「興徳寺」へと改称、同年、大日蓮華山興徳寺とし、庫裏を再建、建立しました。明治12年(1879年)、四十八世日啓上人の代に、念願であった本堂を再建、現在の興徳寺の姿になりました。

歴史

西暦(元号) 出来事

1289(正応2年3月)

住職:1世 日興
日蓮聖人の直弟子・日興上人〈6老僧の一人〉が、上野の南条時光邸で講演を開くと、馬見塚の郷士・塚本源吾が深くその教化に心服して、邸の東方約1キロに当たる霧ケ峰に寺を建てて寄進し、蓮華山光徳寺とした。

1568(永禄11年12月7日)

 
武田家から当寺に於いて、乱暴狼藉をしてはいけないという制札が下る

1500年代末期~
1600年代初頭

住職:20世 日安
慶長年間(1596年から1615年の間)、興徳寺二十世、本立坊日安の代に、伽藍を現在の地、富士宮市下柚野に移転。(境内地は、当時西の山全部の所有者で資産家の「えっちき」家より寄進された)

1614(慶長19年2月)

住職:26世 日出
現在の用水を三宝様お花水として寄進する、という古文書の記述あり。

(元禄)

住職:27世 日真
多くのご本尊を檀家に授与

 

住職:28世 日実
1~2年の在住

1701(元禄14年)

住職:29世 日光
日光上人就任、数年間の在住。「富士郡上方 身延山直末 下柚野村 大日蓮華山光徳寺」と書いている

1744(正徳4年)

住職:30世 日運
日運上人就任、30年在住(1744、延享元年まで)

(元文4年4月26日)

住職:31世 日生
日生上人就任、14年間在住(1753、宝暦3年まで)後、大泉寺31世となる

1753(宝暦3年)

住職:32世 日産
日産上人就任、16年間在住(1769、明和6年まで)、30世日運上人、当寺で隠居生活(経済的に余裕があったことの証)

 

住職:33世 日芳
資料なし

 

住職:34世 日実
日実上人のご本尊2幅現存(1709、安永9年と1784、天明4年)

1786(天明6年)

住職:35世 日啓
日啓上人(身延山47世日豊上人弟子)就任、13年間在住(寛政11年8月遷化)

 

住職:36世 日顕
井の頭 遠照寺20世、就任後1年で遷化、その後1年は無住

1802(享和2年4月5日)

住職:37世 日養
日養上人就任、19年在住(1821、文政4年6月15日遷化)

 

住職:38世 日栄
4年在住(1825、文政8年4月7日遷化)

1825(文政8年)

住職:40世 日道
日道上人就任、退住年度不明、(1845、弘化2年2月25日)

1829(文政12年)

住職:35世 日啓
日啓上人(身延山47世日豊上人弟子)就任、13年間在住(寛政11年8月遷化)

1845(弘化2年2月16日)

住職:41世 日逢
日逢上人就任、9年在住(1854、安政元年 退寺)後、浜松の東本徳寺24世として栄転

1854(安政元年4月4日)

住職:42世 日演
日演上人就任。安政6年、3月22日、本堂消失、御尊像のみ助かる。翌年、万延元年、5月11日、山崩れで庫裏が全壊、小僧さん2名が死亡。
日演上人は同年8月16日、寺を出て、甲州本郷の恵光寺に奇遇、慶応2年、病死。恵光寺は後、廃寺となる。

1860(万延元年8月26日)

住職:43世 日晄
日晄上人就任。現在の庫裏を建立。この頃は大日蓮華山興徳寺

 

 
(これから明治10年までの僅か17年の間に6人の住職が亡くなられた)

1878(明治10年)

住職:48世 日啓
羽鮒の妙行寺から日啓上人入山。翌年5月、民間人が所有の三澤寺の七面堂(1654建立、354年前)を購入し、本堂を再建。

1888(明治22年6月13日)

住職:49世 日溝
大久保円恵寺27世から当山に入山。本堂、庫裏を自前で整備。明治43年8月27日、長貫の長見寺に入山。

1909(明治43年8月)

住職:50世 日雄
井之頭、遠照寺32世から日雄上人入山。大正14年5月に退寺、和田の本秀寺で遷化。

1926(大正15年)

住職:51世 日栄
日栄上人就任。昭和49年3月9日遷化

1975(昭和50年3月2日)

住職:52世 日譲
日譲上人就任。平成17年9月30日遷化

 

住職:53世 日境
(加歴)

2006(平成18年7月1日)

住職:54世(現)
松永泰然 住職として就任

2017(平成29年)

 
本堂の大幅修繕事業完了