久しぶりに 宮城県~岩手県の被災地を訪れました。 いつも一緒だった ミキオちゃんが 仕事でどうしても行けず 静岡の野澤さんとの二人旅でした。
この時点で 私にできることなど何もないのですが 被災者の方々の今の声を聞き、復興の様子をこの目で確かめることによって 気持ちだけは 東北につなぎ止められています。
あれから3年と3ケ月、 ガレキは片付き、そこここに復興のきざしは見えているようですが・・・ (東松島市野蒜)
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(震災直後)
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実際に仮設住宅に暮らす被災者の方々に 「ここを出られる予定は?」と尋ねると 地方自治体によって 随分開きがあることが分かります。
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大船渡市の 平山さんは 来年6月に
マンション型の賃貸し復興住宅へ、
「ばあちゃんと 大きな声でお話しできるねって
言ってんだ~」 と嬉しそうでした。
それでも 避難所~仮設での生活が 4年です。
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石巻市の杉山さんは
「はっきりしたことは何一つわからないンです~」
と あきらめ顔、
先日行なわれた抽選にも外れ、
これから建築する場所を申し込んでも最低2年?
仮設住宅のたった1坪のリビング&キッチン、
他に6畳間2つに成人家族が3人の生活から
いつ解放されるのでしょう?
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石巻市の 裕子さんは 体調を崩し
母親の家で暮らしていました。
あの時 避難所で出会った
中学生の光ちゃんも
高校2年生
釜石市で出会った方は 元の住所を嵩上げすることがようやく決まったので これから盛土・造成工事に2年、それから住宅建築で 計4年、「今 81歳の母親に新しい おウチに済ませてやることができるかどうか」とため息をつき 「オリンピックが決まった時、これでまた復興が遅れる、と思いました」と・・・
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破壊された建物や 打ち上げられた船なども ほとんどが片付けられましたが、
慰霊碑や祭壇が設けられているところでは お経をあげさせていただきます。
200名近くの犠牲者を出し 「釜石の悲劇」 と呼ばれた 鵜住居(うのすまい)防災センターも 建物はすべて取り壊され 慰霊のための祭壇が設けられていました。
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上の画面 右隅の建物の
内部です。
祭壇が祀られ
ご遺族の方々により
美しく保たれています。
石巻市立大川小学校
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(74名の児童と10名の先生が犠牲になった)
;必ず立ち寄るところです。
いつも新しい花が供えられ
祭壇もきれいにお掃除がされています。
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今も 訪れる方が後をたたない。
来るたびに思います。 何故 隣接した山に逃げず、 わざわざ川の方に向かったのか?
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( 大川小から 堤防を望む。 津波は あの橋を越え 子どもたちと先生を呑み込んだ)
ここは 海から4km、 津波、という想定がなかった?
同行した野澤さんが 北上川を眺めながら ポツリ、 「これ どう見たって 河じゃない、 海ですよね~?」
そこのところの認識の差なのでしょうか?
南三陸町防災対策庁舎;
南三陸町の悲劇のシンボル的存在、取り壊しが決定しています。
(震災直後)
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(現在)
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被災者をして 思い出したくない悲しい場所、という気持ちは よく理解できますが
私の個人的な意見としては 残して欲しい、
津波は屋上のさらに3m上まで達した、という事実を知り、祈りを捧げる場所として・・・
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観光客も必ず立ち寄る場所ですが
中には 笑顔でポーズをとるバカ者もいるらしい、
言語道断!です。
バスを降りるとき
火の点いたお線香を渡してあげれば
皆きっちりと手を合わせるのではないかと
提案します。
宝来館にて
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釜石市鵜住居(うのすまい)区
宝来館(ほうらいかん)の女将、
岩崎昭子さん。
従業員・顧客をイチ早く裏山に避難させ、自らは まだ避難されていないご近所の方を救出するため山を降りたところで 津波に巻き込まれ、九死に一生を得た方、 3階まで水に浸かった宝来館を 見事一年後に再オープンさせました。 一度、泊まってみたいとずっと思っていたのですが このたび念願叶いました。
あの時のこと、これまでのこと、復興に関する思いなどを 訥訥と語ってくれました。
「防潮堤の高さをいくらにするか、が問題ではない。 自分たちにとって ここにどんな未来や故郷を作りたいのか、そのために何が必要なのか」
「大学の偉い先生が アーデモナイコウデモナイと言っているが そんなことより まずスコップを握って 作業しろ!と言いたい」
「防潮堤が命を守るのか? 命を守るのは 自分たち一人ひとりでは」
「防潮堤に 膨大な予算を使って 海も見えない生活をするより、津波が来たら 逃げればいい。」 等々・・・ 被災地でいつも私が感じ、でも話せなかったことを 被災者の方から語っていただいたことに 感激いたしました。
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車イスで避難できるようにと
森林組合とボランティアさんたちの
協力を得て
木材で作った避難道路を
1年がかりで 完成させました。
今度ここに 子どもたちのための
大きな滑り台 を
作るのだそうです。
―― 太平洋プレートによって 大きな恩恵を受けてきた(鉄の産地)この町が 今度は太平洋プレートで被害を受けた。
1000年のスパンで物事を見ると すべては大きな流れの中のひとコマ、亡くなった人の魂も 生きている人の魂も 皆ここに居る。 これからの未来を見据えて 1000年の森を作る ―― という熱い思いに 感動・感服でした。
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それぞれの自治体が 『復興』 というキーワードに向けて 邁進していることは確かでしょう。 被災者の方々の 立場・環境・考え方など様々な違いのある中で すべての人を満足させる方向づけを決定することは 容易ではない、ことも理解できます。
ですが 仮設住宅に暮らす方々を 一刻も早く 楽にさせてあげて欲しい、と切に願います。 5年も6年も 仮設で暮らすことなど 誰が想像したでしょうか?
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『私たちは どのような未来を目指しているか?』 日本中の一人ひとりが 考える時だ、と改めて思いました。
*来週、月~木曜日(6/30~7/3) 北海道に行ってきます。 18歳の時、過ごした別海町の牧場、昨年、出発の日に お葬式となって キャンセルとなった一人旅です。