暑い日が続いています。
7月26日にお盆の棚経(たなぎょう)を開始して 2週間が経過しました。
この間に お葬式が 2回、
クラクラするような 思いもいたしましたが 何とか 後4日間くらいで 終了できそうな見通しです。
先月末、『興徳寺便り100号』を発刊しました。 先代住職(父親)が 興徳寺の52世住職に就任した 昭和50年(1975年)に第1号が刊行され、平成9年(1977年)75号で 途絶えていたものを、平成19年に復刊第1号として 私が再スタートさせました。
A-4 4ページですが 今回は特集号として 8ページ建てにしました。
改めて 先代住職の 『興徳寺だより』を 1号から ずっと読み直してみました。
今から 40年近くも前のこと、 手書きの「ガリ版刷り」です。
こんな記事が・・・
昭和53年発行の 第11号、
父親 55歳のとき、
当時 長男の私は
北海道に住んでいて
ブラジル永住を決めていました。
次男の弟は
大学の仏教学部を
卒業したものの
ファッション関係の仕事に
憧れていたようで
それはそれで いいだろう、
と 思っていたようです。
今の私は 主管者として 寺を維持しています。
ケンメイに。
お寺の住職は 主たる管理者であって それ以上の何者でもない、という事実が 案外忘れられているような気がします。
私にとっても 小さいころ お寺は 我が家でありました。
弟が亡くなって 帰る、と決めた時点でも
お店の子どもが お店を継ぐような気持ちしかありませんでした。
ところが
住職を目指して 修行を開始して間もなく
私は 興徳寺住職の 候補の一人にすぎない、
という事実に気づかされたのです。
ブラジル引き払ってきたのに
住職になれるという 保障などなかった・・・
その時に思ったのです。
それならば
この私が 次期興徳寺住職にふさわしい
と 誰もが 認めてくれるような
努力をしようと・・・
「得度式」
2004年11月13日
54歳
「よきかな 善男子、
よく世間の無常を悟り
世俗を捨てて
菩提の道を求めよ」
と お導師様が・・・
この時点で 家も 世間一般の 欲も すべて 捨てた・・・
それを 「出家」 というのです。
ふざけていたら 地獄に堕ちる、も もちろん承知のうえで 一日一日を 生きています。
でも
「どうぞ ほとけ様の お役にたたせてください、 もしも こちらで必要ない と思われたら どうぞ そちらへ お迎えください。」
と 身体も 命も すべて ほとけ様に 丸投げ、
これは ある意味 とても気楽な生き方でもあり 私には よく合っています。
『8月16日 川施餓鬼』
もう来週に迫ってきました。
参加者を集めるのに 必死です。
今の 子どもたちは 夏休みといえどクラブ活動や スポーツ少年団などで なかなか忙しい。 お盆休みで 親と一緒に 旅行、というケースも多い。
夏の暑い日、 スタッフの大人たちが ただ 子どもたちを喜ばせたい、という思いだけで集まってくれます。 彼らに 充実感を味わってもらうことも 私の任務です。
皆様の お近くに 小学生(もしくは幼稚園)の子どもさんが おられましたら 是非 参加を呼びかけてください。 お願いいたします。
久しぶりの富士山です