山寺の
和尚さん日記

生まれた瞬間のこと

男2人の生活をそれなりの覚悟をもってスタートしました。

5月は今までできなかった内外の片付けとか、お掃除や草刈りなどをよくしました。 これはこれでとても楽しいことです。 着物のほころびもヒドイ出来栄えではあるけれどとりあえず・・・

 

とても新鮮な気持ちです。 ブログの更新のこともまったく忘れてしまっていました。


           (キンラン)

昨日、古い書類を整理していたら父の手記(?)が出てきました。 わら半紙2枚の裏表をつかってエンピツで書かれたものです。紙は変色し、字も薄くなっていましたが何とか読み始めてみると・・・
どうも私が生まれた時のことらしい、

俄然 興味を覚え、画像化して加工し、それをワードで打ち込んでみました。

↑ これが原文、

↑加工後、何とか読めるようになった。

A4で清書しても4ページ余りの長文なので 一部を紹介します。意味不明のところもありますがなるべく原文のママで・・・

  1月9日夜11時頃より芳枝痛み出す。隣家の辻子さんの例にかんがみ未だ未だと思い 三時頃 湯たんぽを作ってあたためる。 いよいよ今日は生まれるのだと思うと感無量、どうすればよいかともう一度考え直してみる。準備は大体良しと安心してひと眠り、四時半起床、部屋を暖める為 本堂にあった火鉢をもって来て炭をたくさん入れ、洗面器をかける。

 前日の夜から始まるこの文章、父の緊張感が伝わってきます。 

明け方お産婆さんを呼びに行き、雨の中をやって来てくれて、指示に従ってお湯を沸かす。隣のおばさんも手伝いに来てくれた・・・

 矢崎さん(*産婆さん)浣腸をしてくれた。芳枝 便所へゆく。すっかり排便したようだ。  心もち昨日よりやせたとおばさんの言。 時々うめき声をもらすようになった。 はげます産婆さんの声、 重苦しいような空気にいてもたってもいられないような気持ちだ。 可哀そうだがどうしてやることもできない。 出産は十二時過ぎとのこと故 おばさんに頼んで ごはんの支度をしてもらう。

おばさん、産婆さんさんたちそれぞれにご飯を食べるのだが、母はとても口に入らない・・・

 芳枝のうめきは悲鳴に近い。 うろうろと表に出たり 意味のない事をしてみたり 人に聞いている通りだ。 湯は鉄びんと 釜二つにむやみと沸いている。 12時過ぎ 今までの雨は音もなくやむ。 産婆さんが 大丈夫ですよ 頭からさきですよ などと言っている。 大丈夫ですか? と芳枝が泣きながらきいているのを聞いて 涙が出そうになる。 12時30分、いよいよ生まれそう 産婆さんが 何かと言っている。 苦しみながらも わり合 はっきりと返事をしているのを聞いて 心強く思う。 大事なところだよ  しっかり しっかり、  出てきたようだ 

ハイ もうあまりいきまないで  そうっと そうっと いたんできたら口をあいて ハーッ としてごらん ヨシヨシ すこぅし いきんでもいいよ、 

悲鳴、 声を出してはだめだヨ、 イターイ! もうすこし もうすこし、

まだですか? もうすこし いきんでごらん、 だいじなところだよ、口をあいていきんではだめだよ、 もうすこしいきんでは いやだよ、 大きい大きい、 ちょっとおしりを下において、 そらよし、 そらよし、 オギャー オギャー   泰静(*たいじょう、父)さん男の子さんですよ、 ウワーッ、スゲー、スゲー  ほっとしたと同時に無性に嬉しくなった。 体がおどるようだ、 産湯をつかう時 赤ちゃんと初対面、 自分にはわからんが元気そうな赤ん坊だ、 芳枝のそばで「ご苦労でした」 何もゆうことはない、 ニッコリと嬉しそうに笑った。

 この後、興徳寺に報告に行き(*当時は隣の小さなお寺に住んでいた)、郵便局に寄って母の実家に電報で報せ、(*ウナ電という名の至急電報でそれでも1時間以上かかって届くらしい、料金120円は私への出産祝いの最高額が100円の時代、結構な金額だと思う、因みに母の実家の清水まで約40km)、戻ると近所の人たちが顔を出してくれて、大きいから大変だったね、と口々に・・・ 910匁(3400g)だったそう。

 それからこの土地のしきたりとかで「産飯(うぶめし)」を炊いて氏神様(本堂)へ上げ、みんなで食べる。

 きっと白いご飯を食べる機会の少なかった時代に喜びのおすそ分けのような風習かな?と想像しました。

 掃除をしたり オシメを洗ったりして 九時就寝、 芳枝は少し鼾をかいて安心しきったように寝ている。 赤ん坊は時々はくのでガーゼを取りかえる。 布団へもぐると又くすくす布団を出たり入ったり 芳枝は寝ているし 一人きりになると勝手がわからんので心細くなる。 どうぞ男らしい男に 丈夫に育ってくれるよう 赤い顔をながめながらしみじみ思う。 自分のような意思薄弱な男になってくれるな 苦労させなければならないような子供の将来を思って多少センチになる つかれたせいかぐっすり寝る 三時に泣き声で目をさます

 手記はここで突然終わっています。

 自分が生まれたその瞬間のことを初めて知りました。
朝生まれたとばっかり思っていましたが、昼過ぎだったことも。

若き父(26歳)と母(24歳)と赤い顔した3400gの私、生まれたあの場所に思いを飛ばしイメージ画像を結んでみました。 不思議なくらいリアルな動画が浮かんできます。 75年も一瞬のこと。 
これからの時間もまたそんなものなのでしょう。

生後7ケ月、

今回はプライベートなことを長々と申し訳ありません。 

自分が生まれ落ちた瞬間のことをいきなり知って、ちょっと興奮し他のことを書く気になれませんでした。

私が生まれたその夜の父親の願い、 「男らしい男に」はずっと憧れているけど、自分はまだまだだと思う。

「丈夫に育ってくれるよう」これはありがたいことに本当に丈夫に育ちました。

「意思薄弱な男になるな」については、そうかこれは父親譲りだったのか、と妙に納得しました。遺伝です。

4~6月のもっとも自由な時ももう終わり、暑い7月~8月のお盆、9月の彼岸まで1年でもっとも大変な時期の始まりです。 泰潤と一緒に 気負わず、しっかりと歩んでいきます。

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