山寺の
和尚さん日記

交響曲第1番《HIROSHIMA》

『毎日書道展』への出展作品が 締め切りが迫っても なかなか出来上がらず、 先生をもヤキモキさせましたが
昨日 何とか提出することができました。 
今、少々ホッとしています。



出展を申し込んでから 約2ケ月の余裕があったので 何とか200枚を書いてみたいと 思ったのですが・・・


彼岸~花まつり と 集中できず、 
終わってみたらば 120枚ほどでした。
「審査の結果については 運もあるので・・・」
先生のビミョー(?)な発言。
毎日 朝の4時から 1時間半を 制作時間に充てています。
いつも その日の気分で 音楽を選んで流していますが 今回は毎日 同じ曲でした。
それは 全聾の作曲家 佐村河内守さんの 交響曲第1番《HIROSHIMA》


佐村河内守 さむらごうち まもる 1963年9月21日~
被爆者を両親として広島に生まれる。4歳から母親よりピアノの英才教育を受け、10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなし「もう教えることはない」と母親から告げられ、以降、作曲家を志望。中高生時代は音楽求道に邁進し、楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。17歳のとき、原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症。高校卒業後は、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学ぶ。
1988年、ロック歌手として誘いを受けたが、弟の不慮の事故死を理由に辞退。聴力の低下を隠しながらの困難な生活が続く中、映画『秋桜』、ゲーム『バイオハザード』等の音楽を手掛ける。1999年、ゲームソフト『鬼武者』の音楽「交響組曲ライジング・サン」で脚光を浴びるが、この作品に着手する直前に完全に聴力を失い全聾となっていた。抑鬱神経症、不安神経症、常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り止まない頭鳴症、耳鳴り発作、重度の腱鞘炎などに苦しみつつ、絶対音感を頼りに作曲を続ける。
2000年、それまでに書き上げた12番までの交響曲を全て破棄し、全聾以降あえて一から新たに交響曲の作曲を開始。2003年秋、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』を完成。同曲は、2011年、日本コロムビアよりCDリリースされ、センセーショナルな反響を呼んだ。 (HPより転載)

「イイ」とか「好き」とかいう表現より もっと月並みなのですが 「スゴイ!」としか 言いようもない。
音が 全く聴こえなくて 交響曲を作曲する、ということだけでも 「スゴイ!」ことだけど、 24時間止むことのない 重度の耳鳴り、絶え間なく襲う発作、重度の神経症、腱鞘炎、過敏性大腸症候群等々 これでもか これでもかと襲い来る苦痛、 その合間を縫っての 作曲活動は 「スゴイ!」以外の言葉が見つからない。 
肉体的に大きく欠けたことで、私はもとより欠けていた人間性を取り戻すことができ、作曲家としては 内なる音――― 私にとっての真実の音=闇の音 ―――との奇跡的な出会いを果たすことができたのです。(自著 交響曲一番 より)

曲が また 「スゴイ!」のです。 80分を超える大作で 不協和音の鳴り響く難解な曲ですが  希望の鐘の音が鳴り渡るなかのフィナーレは 何度聴いても感動します。
闇が深まっていくたびに〈呪われている〉というイメージにとらわれ、自分の感じる”神”という存在を憎んできました。 しかしその一方で、神が与えたその闇なくして、平凡な幸福(小さな光)の大切さと 祈ることの大切さを見出すことができなかったのも事実です。
自分を闇に突き落とした憎むべき相手と、真理の感謝を捧げる相手と、苦痛から救われるために祈る相手―――。その三者は「同一の存在」だったのです。(同著より)


僧侶として
自分のつたない体験などを元に
人前で話すことが
恥ずかしく思えます。 
佐村河内さんのことが 最近マスメディアでよく取り上げられ、交響曲第1番《HIROSHIMA》 全国ツアーコンサート、 も 大人気、近日中の公演は すべて完売だそう。  2014年4月に 静岡公演があるとのことで、先行予約を入れておきました。 一年後です。 遠い!ですね。


                  裏山(ドングリ山)からの 昨日の富士山です