山寺の
和尚さん日記

13回忌

本当に長いことブログを書いていなかったんだな~、と思います。
ネタはいくらでもあったんです。
旅行にも行きました。
 
ドングリの会で長野(日帰り)、

お仲間と 北陸~金沢(1泊)、

坊さん仲間の懇親会(1泊)

本堂は完成したし、

所属する書道会の2年に一度の展覧会、

「富士山ピースフェスティバル」では1000人収容の大ホールを借り切って、広島からアメリカ人の童話作家・アーサービナードさんを招いて講演会もしました。


ドングリの会の総会もあったし、
恒例の「興徳寺をきれいにする会も・・・」 

一年でもっとも自由な時間が取れるこの時期は、やっぱりやることも集中してくるのだ、と思いました。

7月1日、新しい本堂で 妻・初代の13回忌でした。
東京からもお友達夫妻が来てくれて、妻をよく知る人たちだけの温かい法要になりました。
息子・泰潤も特別許可をもらって出座してくれました。


挨拶の中でこのような話をしました。

「13回忌です、と言うと皆『もうそんなになるんですね~』と言います。確かに12年前の7月1日のことは今も くっきりと思い出されます。 
でもあれからそれなりの確かな時間が流れました。 あの時、我々は皆、今より12歳若かった。
体力は確実に衰え、歳をとらないのは初代さんだけです。 多 くの叔父さん・叔母さんが病床にあって参列できない中で、ご両親がそろって顔を見せてくれたこと、本当に嬉しく思います。」

「初代さんと初めて出会ったのは、彼女が20歳の成人式の日の夕方、駅前の ”いこい” という名の喫茶店でした。 その時彼女は振袖姿、私はアフリカの中古市で買ったぼろぼろのアーミーコート、傍から見たらなんともおかしなカップルだったと思います。
お付き合いをして3ケ月で私は沖縄へ、その夏私の友人小野田君たちと沖縄に来てくれました」

21歳の初代さん
「翌年、私は沖縄から北海道へ・・・ 今度は妹と一緒に北海道まで。」

〈サロベツ原野〉
「年が明けて翌年2月、友人の結婚式に帰省した私に、初代さんが働いていた保育園の園長さんが、勤務に身が入らないのは私のせいである・・・と言っている、という声が聞こえてきて、私は北海道に戻る日を一日延ばして、友人のスーツと車を借りて、園長さんに面会を申し込んだところ、簡単に切り捨てられてしまいました」 
「その夜、保育園にも実家にもいられなくなった初代さんが逃げ込んだ先はナント、件の私の友人・小野田君の家。 外に連れ出した私が言った言葉は 『こうなったら結婚するしかないじゃん』 『・・・ウン』、 
友人の家に戻り結婚報告をし、ついで私と初代さんの家にそこから電話をし、『後は頼みます』 と小野田君の父親にお願いし、友人たちと初代さんに送られて富士駅へ、夜行列車で北海道に戻ったのでした。 結婚を決めたというのに、手も握ることもできなかった」

「小野田のオヤジさんが代理で初代さんの家へ・・・、義父は『犬の子やるわけじゃあるまいし』 と立腹したそうだけど、そりゃそうだと思う。
翌月、初代さんの家にて結納~仮祝言、その夜、妻の欄と保証人2人の署名捺印された婚姻届を突き出され、ウ~ム、と一呼吸置いて判を押したのでした。 あえて言えばその日が結婚記念日なのだろうけど、私も初代さんも頓着なく、覚えていません。」
「北海道で5年、飯場の飯炊きなど苦労もかけたけど、子どももできてシアワセな日々でした。でもこのままここで人生終わっていいのか?って思い、初代さんも同じ考えだったので家族でブラジルへ。 何年かたってマンションを購入し、子どもたちを私立の学校に通わせ、いい時期も経験しましたが、独立して喜んだのも束の間、顧客の支払い不履行により一気に赤字経営に・・・ 苦しい時、いつも励ましてくれたのも初代さんでした。 
自分の人生でもっとも幸運だったのは、この人と結婚できたことだ、とよく思いました」

「突然弟が亡くなった時、大きな契約を控えていた私は行くことををためらっていたのですが 『何を言ってんの、行くに決まってるじゃん!』 と背中を押してくれて、結果としてそれがなければ興徳寺の住職は別の方が就任したのでは、と思います。 
今の私があるのは初代さんのおかげです」
「『初代さんが空港で倒れて意識不明の重体です。』 の報せを受けたのは翌年6月のこと。
私が駆けつけるまでたった一人で妻に付き添ったのが次男の泰潤でした。 病院近くの安ホテルでたった一人、どんなに心細かったことか、とくに脳の血管の収縮が始まり、助かっても植物人間、と医師から告げられた時のショックは・・・  ホテルで大泣きした、と後で語ってくれました」

「『ケンちゃん(私のこと)はホントはお坊さんになるのがいいんだけどね~』 とつぶやいていた初代さんが、実は泰潤にも同じことを言っており、それが彼をして僧侶とならしめる決め手となったのでしたね?」

「大工の倅であった私の父親が小学校2年生で興徳寺の小僧になったのも、急逝した母親の遺言でした。
その息子、そしてそのまた息子も同じ道を歩もうとしています。 すべてが完璧なプログラムの中にあり、無駄なことなどひとつもないのだ、と初代さんがいつも言っておりました。 
私の現在の境遇、母との良き関係もすべて初代さんに与えてもらったもの、と心より感謝しております。」
 

「オーストラリアにだけは行かしてやりたかったな、孫の顔を見せてやりたかった、それだけが残念です。」