山寺の
和尚さん日記

東松島市より

4月12日、前回お世話になった 避難所の、東松島市コミュニティーセンター(通称コミセン)の 事務所に支援物資をお届けし、 そこに暮らす 懐かしい方々と再会。 
「お帰りなさ~い」 と迎えられ、 何となく 照れ臭くもありましたが 「ただいま~」と答えました。
翌日より 2日間、 ボランティア作業。 
出発前「道具類で 不足している物は?」 と 問い合わせ ゴムの軍手・カッパ・マスク・手鉤(冷凍マグロを引っ掛けるものですが、ここでは 畳を引っ張るのに使用)を 購入し、ボランティアセンターに お渡ししました。

あれから2週間が経過したけれど、 作業内容は まったく同じ。

 ボランティアセンター内の 仕事の依頼票 
ヘドロのかき出し、家具・電化製品、そして畳の撤去、最後に もう一度 畳と床板の間の ヘドロを撤去して、洗う・・・

水道が復旧していれば問題ないのですが、 なければ貴重な ポリタンクの水を 工夫して使います。

仕事は かなり重労働です。
特に 台所は 食器棚・流し台・冷蔵庫などが 折り重なるように倒れこんでいて 足の踏み場もないくらい。
3月11日の午後から 時間が止まったままです。
 冷蔵庫の中の材料、炊飯ジャーのご飯、食べ残しの惣菜・・・
異臭を放つ それらをドサドサとゴミ袋に放り投げながら 少し感傷的になりました。

 現場への車中
ボランティアの数も増え、特に男子の学生さんも多く、
作業の能率もアップ。 
若い彼らにとっても 大変貴重な体験になると思います。

ボランティアセンター前にて 相棒のミキオちゃん。
避難所には 何となく暖かい空気が流れています。
1ケ月経って それなりの 落ち着きと 生活のリズムができたこと。
自衛隊による 朝晩の炊き出し と お風呂のテントも設営されていました。
亡くなられた方(行方不明者) と ここに避難されている方たちの 生死を分けたものは まったく紙一重、 
避難するつもりもなかったけど、通りがかりの車に乗せられて・・・ とか たまたま車に乗っていてラジオを聴いて・・・ とか、津波に呑まれて何度も水を呑み もうダメかと思ったとき アパートのベランダに流れ着いた・・・ 等々、
死の淵を垣間見た 同じ被害者同士の 連帯感、 自分より まだまだ可哀想な人がいる、という思いやりの心、
東北の人たちの 優しさと 忍耐強さ を 今回も 強く 意識しました。 

ささやかな飲み会
仲良くなった このおばあさん、 
地震で投げ出されて骨折し、息子さんの車で 
病院に向かう途中で 津波に遭遇、 あわてて高台に逃げたそう。
自宅は 石巻市、
海からは離れているけれど、北上川の畔、逆流した津波で 
1階の店舗の部分に 8台の車が流れ込み、
その内2台からは 遺体が発見されたそう。 
「津波など考えた事もなかったし、避難する気もなかった、 骨折していなかったら 死んでいたでしょうね」と・・・




「家族が こんなに密度の濃い時間を過ごしたのは 初めて、 今が一番 ドン底だから 後は 上を向いていくだけ」 と明るく話してくれました。 
  (富士市の恭子さんが 差し入れてくれた Lサイズの下着は このおばあさんに 直接お渡しし、大変に喜ばれました)  



  満開の 菜の花畠、 富士山が もうちょっと クッキリ出たら 再度 アップします。