興徳寺の情報交流

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興徳寺の情報交流-紙上法話

第80号(復刊第5号)平成20お盆

その日はつゆくさのつゆのようにうつくしくかがやきたい

ねがい

いつかは 
その日がくる
その日のために
一切が生きているのだ
飛ぶ鳥も
咲く花も

その日は

明日かもしれない
いや
その日の夕方かもしれない

それゆえ
その日は
つゆくさのつゆのように
うつくしくかがやきたい

        坂村新民

 

 一昨年 十二月、九十七歳で亡くなられた、仏教詩人、坂村真民さんの詩です。

私たちが、自分のことなのに自分で決められない日が二つあるそうです。
それは生まれる日と、死ぬ日。

生きる・年をとる・病気になる・そして死ぬ・・・
お釈迦様は、この生活苦・老苦・病苦・死苦というの四つの苦しみの解決のため、出家され、修行をされて、悟りを開かれました。

 私たちは 『死』 という苦しみから逃れることはできません、「死にたくない」と叫んでも、いつかはその日がやってきます。そしてそれは、三十年後なのか、五年後なのか、もしかすると・・・
もしかすると明日のことなのかもしれないのです。

 日蓮聖人、妙法尼御前御返事というお手紙の中の一節

『人の寿命は無常なり。出つる息は入る息を待つ事なし。風の前の露、尚譬にあらず。かしこきも、はかなきも、老ひたるも若きも定めなき習ひなり。されば先臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし』

――人の命とは、はかないもので、最後に息をフーッと吐いて、永遠に吸わない時が来ます。それはまるで葉っぱの上のつゆが風でポロリと落ちるよう・・・  
頭がいいとか悪いとか、年をとっているとか若いとか、まったく関係なく、誰にも公平に、その日が来ます。  
ならば、まずはその心構えを学びましょう――

法華経というお経の中で、私たちの生命は過去〜現在〜未来へと一貫してつながっているもの、と示されています。 
ならば死は単なる人生の終わりではなく、新たな出発点でもあるはずです。

 草の葉の上の露は、最後の瞬間まで美しく輝いています。 
生かされている、という『今』に感謝し、『今』をしっかり生きる、ということがたいせつだと思います。

透き通るつゆくさのつゆのように美しく輝いて、 旅立っていきたいですね。


【写真提供 高瀬幹雄 】