山寺の
和尚さん日記

妻の命日

今日、7月1日は 妻の命日です。
平成17年6月末のある朝、いつものように朝のお勤めを終えて、本堂から戻った私にブラジルから電話、妻の友人でした。 曰く「初代さんが空港で倒れ、近くの病院に収容されていますが、意識不明の重態です」・・・ 弟の訃報を受けたときとまったく同じ衝撃、瞬間頭の中がカラになり、目の前がモノクロ写真になりました。
ブラジルに着いたとき、妻は集中治療室のベッドでこん睡状態。オーストラリアの長男も駆けつけ、ブラジルの次男と3人で毎日病院に通い、許された10分間、1日2回の面会時間に 一方的にしゃべり続けました。 が、容態はまったく好転せず、私は最後の手段として、ブラジルでもっとも進んでいると言われている病院への転院を考えました。 保険はきかず、助かったとしても、植物人間になる可能性大 ではありましたが、それでもやってみたいと思いました。 植物人間になった妻を、興徳寺に連れ帰って、私が面倒をみようと思いました。 知人を通じて、転院の手続きをし、家に帰ったところ 「ママイ、デスカンソウだって・・・」と息子。それは「お母さんが休息に入った」という意味のポルトガル語です。 妻が「ありがとう、ケンちゃん。もういいよ」と言ってくれたような気がしました。 不思議なくらい 悲しみもなく、子供が用意してくれた昼飯を「今夜は遅くなるし、せっかくだから腹ごしらえだけでもしておこう」と3人で食べたのです。 お母さんが死んでメシ食ってるのは 俺らくらいのもんだろう、などといいながら・・・
妻はフリーの旅行ガイドでした。 彼女にとっては大きな仕事、日本からの政府の外郭団体の職員2人を案内して 1週間サンパウロ州内をまわり(サンパウロ州といっても日本と同じくらいの面積がある)最後に空港に送り、その直後に倒れて、空港の診療所で意識を失ったそうです。 くも膜下出血でした。 
彼女が携行していたショルダーバッグから、2枚の名刺がでてきたので、電話をしてみました。 1週間の間に、何か変わったことはなかったかを聞きたかったからです。 ずっと楽しく過ごす事ができて、最後に一緒に夕食をした。変わったことは何もなかった。ただ、2人がゲートに入る直前、振り向いたら車椅子に座って手を振っていた。びっくりして戻ろうとしたけど、大丈夫というようなジェスチャーをしたので、そのまま出国してしまった、と大変驚いておられました。
プロのガイドがその戦場である空港で、制服姿で逝った・・・ カッコイイジャン! とまた息子たちと。
遺骨を抱いての帰路、給油のために寄ったニューヨークの空港で、飛行機の窓から外を眺めなが「初ちゃん、もうちょっとで日本だよ」と何気なくつぶやいたとたん、何故か大粒の涙がとめどもなくあふれ出し、私は席を立つ事さえできなくなってしまいました。 あそこで 初めて現実の世界に戻れたような気がします。 それは生まれて初めて体験した深い悲しみでありました。 心にポッカリ大きな穴が開いてしまって、何もかもがそこに落ち込んでしまうようでした。 また 年を重ねるほどに、寂しいということはツライもんだ ということも知りました。
それまでの私は強い男に憧れ、「男は泣かない」をモットーに 子供たちを育ててきました。 いつも笑っていて 「明るい松永さん!」と呼ばれることを ヨシとしました。 でも、今は 泣きたきゃ泣けばいい、泣いた分だけやさしくなれる、と思います。 そして、悲しさ・寂しさを知るということが、坊さんとして 不可欠の要素であるということに気づかされたのです。
弟は事故、妻は病気でした。 でも、2人とも倒れる10分前には笑っていた、まさか自分が死ぬなんて予想だにしていなかった・・・  私も明日は死ぬのかもしれない、と思います。 だからこそ今生きていることが、生かされていることが、ありがたいと思えます。
早いもので、来年が7回忌。 年をとったのはこっちだけで、あいつは永遠に年をとらない・・・ 

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